影響を受けすぎることの是非

前に書いた記事について、ある知人にこんなことを言われた。

「あの文章、あれそっくりじゃん!てか、そのまんま!」

あれとは、内田樹氏の「子供は判ってくれない」の一つの章のことである。

家に帰り、再読。なるほど、そっくりというよりパクリそのものである。

あの文を書いているとき、内田氏の文章が全く意識になかったとは言えない。

むしろ、意識を置いて書いていたのだ。

むろん、そのまま書くつもりはなかった。

それを、自分の体験としても感じていたため、少しは自分の声のようなものが入ればいいなという感じだ。

翻訳するというか。

さて、ここまで読み返してみると、まるで真似したことの言い訳のように聞こえる。

しかし、ここでの本当の問題は、自分が他人から自分が思った以上に影響を受けていることなのだ。

影響を受けることは、強みなのか弱みなのか。微妙というしかない。

この影響について、ある言葉から探ってみる。

それは、「人に流される」である。

人に流されるということは、あまり一般に評価されるものではない。
(先生はよく人に流されましたね!なんて言わない)

そして、考えてみれば、人に流されることは、人に影響を受けることとも言えるだろう。

しかし、厳密にイコールではない。

流される方はAという影響だったらそのままAで、影響を受けることはBの影響を受けたらB゜になることのような気がする。(まあ、簡単に影響の力を一つの記号で表せるとは思えないけど・・・)

うのみにすることと、ちょっと自分の何かと化学変化することというか。

そのほかにも、人に流されるという語が持つ響きはある。

その響きに自分がないということが含まれることは疑いいれないだろう。

自分がないとはどういうことなのか?  自分で物事を決められないことなのか?

つまりそれは、自分の物差しがないことへの非難めいた声が混ざっていることである。

しかし、その物差しも誰かからの受け売りではないか?問われて、否とは答えられない。

むろんそこには、選択が存在する。なぜそれを選択したかは、わからない。でも、したのだ。


選択肢は他人から与えられる。自分で閃いたと信じていても、他人から何らかの限定は受けているはずだ。

つまり、その他人から与えられた物差しのようなものを選択するということは、その特定の他人に流されることを決定

することなのだ。重要なのは、「特定の」である。この「特定」が見えないとき、人は弱みのように見る。

S・フィッツジェラルドが言うように

「人生というのは詰まるところ単一の窓から眺めたときの方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。」
                               (『グレート・ギャツビー村上春樹訳)

その「特定」がその人のらしさのようなものになるのである。

しかし、そのその人らしさを守ることが、人生をすっきり見ることが、その人にとって重要かは僕には分からない。


長々書いては見たものの、結局よくわかりませんでした。すみません。また、書いてみます。