文章を書くこととは…?
村上春樹さんのエッセイ、村上朝日堂」シリーズを読んでみる。
何回、顔がほころんだかわからない。イラストも吹き出しそうになるものばかりだ。
基本電車で読んでいたため、シリアスな顔を作るのに苦労した。
さて、そんな中に「文学全集っていったい何だろう?」という一節がある。
この一節だけは、全く別物である。きわめてシビアな内容だ。
むろん、他にもシビアな内容はなくはないが、全く深さが違うのだ。
読んでて、体の読後感が全く違う。楽しいものは胸のあたりに感じるが、これは下に来る。
ここで一つの疑問が浮かぶ。
なぜ村上氏はこの文章を書いたのか?
しかし、なぜ書くかという質問はしてはいけないような気がする。答えなどあるのかという思いがわいてくるから。
確かに、
「文章を書くことは楽しい作業である。生きることの困難さに比べ、それに意味を付けることはあまりにも簡単だから だ」(『風の歌を聞け』村上春樹)
とも言えるだろう。
しかし、上の一説は決して書いていて楽しいものではないことは、容易に想像がつく。
楽しい以外に何か書く要素があったのだろうか?
いや、むしろ書かなければいけなかったのではないか?何故?
何故の無限ループだ。何故、何故、ナゼ、ナゼ、なぜ、なぜ。
むろん、言葉ですべてをとらえることは、不可能だ。
例えば、感情。感覚。イメージ。
しかし、これを伝えるのは言葉しかない。
もちろん、100%伝わるなんてありえないし、いびつな言葉になる可能性も多分にある。
言葉は、現実を区切る。分ければ、2つになり、分けなければ、同じものだ。
区切るには、それを認識していなければならない。
今まで、なかった感情に出会ったとき、そして、それを表す言葉がないように思われるとき、どうすればよいのか。
とりあえず、既存のものを選択し、組お合わせ、一応声に、文字にする。
なぜ?
その気持ちを分かってほしいからではないか?
それを、認証してもらいたいから、外に出すのだ。もちろん、自分を含めて。
いや、声に、文字にして初めて自分の気持ちのようなものに、自分が立ち会うといってよい。
本当だろうか?この仮説では、相手がいないような前提に思える。
たいてい誰かに自分を語るとき、思ってほしい、望ましい自分を語っていることはなくはない。
自分の気持ちを語る時も、相手に思ってほしい自分の気持ちを語っているかもしれない。
自分の心のさわりのようなものを表現するとき、自分にうそをついてしまったら、その気持ちはどうなるのだろう?