人生の記憶喪失
最近でもないけど、友人達と一番自分に影響を与えた本は何か?という話になった。
なんであろうか。
私が本というものを、恐る恐る読み始めたのは大学に入ってからだった。
それまでは、いかにしてベンチプレスを持ち上げるか、いかにして友達とアホな会話をするか、どうやったらスクラムで相手に勝てるのかというようなことしか考えていなかったと思う。
だから、本と言うものとは全くをもって無縁だったのだ。
とはいえ、振り返ってみると、人生に影響を与えた本なんてぱっとは思いつかない。
何となく浮かぶのは、高校の時に読んだ、沢木耕太郎氏の『破れざる者たち』であるが、これはスポーツの流れで読んでいたので、そのまま読書に傾倒することはなかった。
しかし、その華やかなスポーツ選手のその後を知るというのは、いずれ、今夢中であるラグビーというものをやめる日が来るという示唆には十分に富んでいた。
何かが終わるというのは、その最中はなかなかリアルに想像できない。仮に、終わることがわかっていたとしても。
そして、なんとなく燃え尽きてもかまわないと思っていたのだろう。
『あしたのジョー』はそのときの愛読書であったし、あのラストには悲しいものではなくて、むしろ何かの格好良さを感じていたのだから。
もちろん、今思えばということである。
一体、一番影響を受けた書物なんてあるのだろうか。
一番の影響を受けたものということは、大きな変化を自分にもたらしたものであると言っていい。
不思議なことに、分岐点が思い出せないのだ。
これで私は変わりましたというモノが。
変わったかどうかもわからない。
それは私ではなく、周りが判断することなのだ。
そして、「あいかわらずだなぁ」とか「かわんねえな」なんて言われるのだから、変わってはいないのだろう。
幸か不幸か。
そして、私という起源は小さな積み重ね、というほどの量もないけれど、ぼんやりとしている。
これは私の記憶力が乏しいからなのかもしれない。すぐに忘れてしまう、なににつけ。
卑近な例で言えば、このブログに書いたことだって忘れてしまっている。
「あれっ、こんなこと書いたっけな」という連続だ。だから、少し恥ずかしいのだ。
自分の知らないところで、自分が何かを発言していることが。
記憶力がある人は覚えているのだろうか。
自分の分岐点、起源のようなものを。
今、自分史を書くということが、浸透しつつあるらしい。
その関連書を新聞の広告欄でみることも少なくない。
そういえば、祖父の自分史を読んだことがある。
それはかなり前の年代に書かれたものらしく、インクは色あせ、紙は黄ばみ、セピア色をしていた。
そして、そこに書かれていた物事は、実に詳細であった。
人生の記録は、本当に面白い。
同時に驚いた。私にはありえない、そんな記憶していることは。
私が自分史を書くとしたら、どんな歴史になるのだろうか。
とりあえず、文体は偉そうでないことを願うばかりである。
そして、全ページ空白の自分史にならないことを祈りし、最近日記をつけ始めた。