2011

みなさま、あけましておめでとうございます。

今、私はせわしなく年も越し、やっと一息つける感じである。

その間もテレビCMは巡るましい。

クリスマス、正月の参拝のCMと続いていたのであるから。

そういえば祝祭というのは、本来晴れと袈に分けられる上で語られていた。

今はそんな二分法は存在していないのかもしれない。

今日は、どうやらシリアスになりそうだな。うん。

年明けだというのに、まったりした文章は書けないものか。

書けないんだろう、きっと。話を戻す。

なぜ日本人はそんな二分法が必要であったのか?

もっと言えば、今はそれが必要とされていないのはなぜと問うことの裏返しである。

それについて少し考えてみた。

そんで一つ浮かぶのは、ビジネスと社会身分である。

江戸時代は職業が、すなわちその人であった。

世襲というが、それは生まれながらに自己が規定されていたのだ。家系を継ぐのである。
そこには、私はなにが向いているのかなあ、とか考える余地は少ないように思われる。

やるべきことはそこにある。

そして常に袈であるからこそ、晴れが希求されたのである。

日常は、繰り返されるし、その繰り返しを変えようとすることは困難であったはずだ。

今は職業選択の時代である。

ビジネスの割合の多い時代である。

ビジネスは、プライベートと分けられるように、日常に晴れが内在しているのではないか。

「五時から男」というコピーはそれを如実に表している。

ビジネスとそれ以外の時間は、別人であるのだ。

そして、そんなビジネスシステムは、人に自由をもたらした。

人はどんな職業にも就ける。もちろん建前は。

もちろん、その人の出生はその人生に大きく関係する。

しかし、それが、割合意識されなくなっていることは否めないだろう。

そこで起きたことは、自己決定、自己実現という概念であった。

書店の手帳コーナーを見ると、自己変革という言葉がついて回るのは恒例だ。

自分は自分で変えられる。と言わんばかりに。

そんな観点からすれば、昔は自由がなくて、可愛想なんて思うかもしれない。

とはいっても、昔の人には自由が素晴らしいなんて概念を知らない訳なんだから、あながち違うのかも分からない。

変えられるというのは、一見自由であるが、逆を返せば何でもないという虚無を含んでいる。

自分が誰であるか言えないというのは、なかなかシリアスなことではないか。

そんな現代では、自己を自分で発見しなければいけなくなってしまった。

自己意識とは、自分の中に他人を持つことである。

対象としての自分と発見する自分がいなければいけないからだ。

いや、自分というものを凝視した時に、初めて自分の中の他人に気づくのである。

自分を求めるときに、オリジナリティを求める。

そのために自分の歴史を振り返り、自分の物語を立ち上げる。

そして、自分が特別だと思うことで、皆と同化するのである。

その物語は他人と同じではいけない。

それは、私の物語だとは言えなくなってしまうからだ。

私という個を確立するために、物語は立ち上げられる。

個を確立する理由は、一つしかない。

自分の存在の確証を得たいからだ。

自由の裏返し。

そう今、人は個なのだ。

反復ではいけない。新しい個、私。

どこにいるのか?どこにもいやしない。

それは概念の上であるからだ。

おっと。まずいところに、首を突っ込んでしまったのだろうか。

しかし、身体はここにある。

その物語も、身体を伴うのである。

物語の行方は、身体と現実の戯れの帰結といってもいい。

そして、その物語と現実の接点に接したときに何かが問われているといってよい。

その接点の戯れこそが、その人の味になるのではないか。

物語を貫くか、現実に合わせるのか。

正解なんてないし、恐らくなにをとっても後々なにがしかの意味を見いだすことだろう。

だから、ゴールを決めて物語を綴るのは、そそられない。

まあ、私という物語にはということだ。

この現象は、アメリカ発のものであることを柴田元幸氏の『アメリカン・ナルシス』から知ったが、この続きをかける日が来ればいいなと願いながらこの文章を閉じよう。

では、また。