チェンジリングに寄せて     Dear ChengeRing


先日、クリント=イーストウッド監督「チェンジリング」を見た。

どうしても、すごかったの一言に尽きてしまう。

友達と行ったので、もちろん帰りにこの映画についてしゃべるわけであるが、映画について語ることは難しい。

本当にすごい映画であればあるほど「すごいね」しか語ることはなくなる。

言葉を出せば出すほど自分の言いたい事から、そしてチェンジリングからも遠ざかってしまう。

あらすじを語ったってしょうがないし、画面を語るにはあまりに画面は自分の言葉とはかけ離れている。音楽を語ったってその音楽のエモーションが再起されるのは自分の中だけで相手には伝わらないかもしれない。

方法論は色々あるわけであるが、もう自分の感動を相手にも伝えるには作品を見てくださいとしか言えないのだ。

しかも、相手も見ていても本当に同じ感動を共有できるかと言われればもちろんNOであろう。

では、ある作品について語る時何故まるでその作品とかけ離れているか?

それは語ることはその作品ではないからである。

当たり前であるが、語られることの対象と語っている言葉はもはや全く別ものなのだ。

つまり、映画について語ることはその映画を題材にした新たな表現といっても過言ではない。

ここで映画作家ゴダールの言葉を思い出す。

「書くことはすでに映画をやることだった。書くことと撮ることの間にあるのは量的なもので質的なものではないからです」 山田宏一著 友よ映画よ<わがヌーヴェルヴァーグ史>より

僕のこの引用の仕方は、ゴダールの意図したものとは異なるかもしれない。

しかしこう考えれば、どこにも行き場のなかった自分の語ることという行為に少しでも背中を押してくれるような気がするのだ。