自分の文章を読むことについて  Read myself

なんだかんだで自分の文章を読むのはこちょばゆいというか恥ずかしい気がする。

特に何か偉そうな感じのものには強く感じる。

それは、これは誰だ?きっとこれを書いたのは自分じゃない!なんて実感というより一種の願望があるんだけど、自分の書いたものに違いはないという事実もあってどうしようもないからだ。


では、何故自分の書いた文章なのに自分じゃないなんて思うのだろうか。

それは、今ならこんなこと書かないなあと思うからだ。一週間前のものでさえそうなのだ。

でも、一年も前の書いたことすら忘れてしまったものは、ふーんという感じで恥ずかしさはない。

恥ずかしさがないというか、もう別人の文章を読んでいる感じに近い。

とすれば、恥ずかしさは自分の文章を訂正したいからだけではないのかもしれない。

そこで、そこにはある種の生々しさがある、と言ってみたい。

その生々しさとは何か?

自分の何かであることは間違いないがよくわからない。

その生々しさは、ガラス張りの服屋で他人だと思っていたら実は自分を見ていたという感覚に、そして思いがけず録音された自分の声を聞いてしまった違和感に近いかもしれない。


三浦雅士氏がかつて書いたものを読み直す苦痛についてこう述べている。


「かつて書いたものを読み直すことが苦痛なのは、そこに現在の自分への否定を読み取るからだろうか。それとも、自分という現象は分裂によってのみ、すなわち自分を否定することによってのみ明らかになるという事実が恐ろしいのだろうか。私はただ幻のもうひとりによってのみ私であるという事実が。」   幻のもうひとり<現代芸術ノート>より



幻のもうひとりという部分がとてもよい・・・。