三浦雅士とあだち充 Can you jadge yourself?
三浦雅士氏の、著書の一節にこういう言葉がある。
「その内部においては自己の正当性を立証する事は出来ないということなのである。「私は気違いではありません」という言説はその人間が気違いではないことの証明にはならない。」
(『メランコリーの水脈』三浦雅士)
そのとは、公理系をさす。公理系とは、武士道や天皇制、国家などの信念、立場というべきものである。
つまり、ある信念を信じている人はその信念そのものが正しいとはいえないということである。
そして、三浦氏は公理系の正しさを、論証することは出来ない、信じるべきものだと書く。そして、その公理系は自己をも含むということをも。そして、自己の問題へと進んでいく。
そこで頭をよぎるのは、自分が正しいと思えないことは恐ろしいことだという思い。恐怖。
むろん、自分が正しいと思っているからではない。
しかし、正しいと思える余地があるのと、全くないとでは雲泥の差があるといってよいはずだ。
真に受けすぎではないか?との疑問の声もあろうが、上の言葉、公理系を、信じてしまうのは、自分について語るいかがわしさ、違和感みたいなものを感じたことがあるからなのだ。
「俺って〜なんだ」と言ってしまったときの、聞いてしまったときの。
ここである台詞のやり取りが浮かんでくる。
「ひとつのこと以外目に入らなくなっていたんだよ。」
「じゃ今のわたしと同じだ。」
「人間、一生の中には・・・そういう時期があってもいいんだよね。」
(『タッチ』あだち充)
これは、あだち充、タッチの完全版の最終巻にあるシーンである。
(タッチは、名作なので、読んだことのない人は是非!)
さて、これは高校球児と売れっ子アイドルの会話である。
そのアイドルは、自分がアイドルとして、忙しいことで何かを失ったのではと不安に思ってこう述べたのだ。
その高校球児はその後、そっけない返ししかしてくれないわけであるが、この二人は一人は高校野球、一人はアイドルの公理系の中にいる。
しかし、この二人の会話から推測するに、それが間違ったことかもしれないという思い、それがいいすぎなら、正しくはないかもしれないという思いを持ちながら、それを信じているといってよい。
このスタンスは、なにかを信じようとする際忘れてはならないのかもしれない。
正しいことを言えないのが問題ではない、問題は自分に正しいことなんてないと自覚していることなんだと。