カキフライの中身は・・・・?You must watch yourself      

アマゾンなどの書籍を扱うサイトには、大体書評が付いている。☆で評価を表すあれである。

そういうのを読むのは結構楽しいし、買うときの参考にしたりして便利である。

しかし、僕は書いたことがない。残念なことである。

なんか、書評を書くのは、なんか相当な勇気がいるような気がするのだ。

吉本隆明氏が書いている。

「文学の批評家たちがやっている仕事は、この大きな連環の一部を拡大し、そこに自分の好みや関心が集中する中心を投げ込んでいるわけだが、じっさいはそれ以外には術がないといっていい。」

                        (『言語にとって美とは何かⅠ』吉本隆明  )


この大きな連環とは、作品から作者へ、作者から生活や環境へ、生活や環境から時代や社会へとつながる
、それであるという。


実に興味深いが、ここでの当面の問題は、書評にはその人の好みや関心が色濃く反映されるところである。

上に書いた勇気とは、恐らく自分の好みや関心を外に表現することに対してであることを含むのは、違いない。

しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。

自分の好み、関心が表れるのは、本に対して書くときだけなのかと。

そんなことはないはずである。

ここで村上春樹氏が述べている。

「カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの距離を書くことによって、自分を表現できると思う。」

                 (『翻訳夜話』村上春樹 柴田元幸 )

村上氏はこの対象はべつにカキフライでなくともよいとも述べている。

考えてみれば、自分の好み関心も言ってみればある対象との距離である。

上の勇気は、自分とある対象との距離の表明に対するものといってよいはずだ。

もっといえば、何かについて書くことは自分について書くことである。

つまり、この文章も、私について書いているのだ。