書くベクトルが向かう先とは

自分が書いているものは、自分が書いているものではないのかもしれない。

こう書いていて、早速意味が自分でもわからなくなってしまう。

ことの経緯はこうだ。

その日は、とても悔しいことがあった。

私は、それを忘れようとし忘れていたつもりであった。

そして、何気なく記事を書いた。

その私の記事を読んだ、数少ない読者から予想外のコメントをもらった。

「あの日悔しいことでもあったの?」と

自分では、何の気なしに書いていたつもりであったが、もろに気持ちが出ていたのだ。

これを無意識と呼んでいいのか?

もしそうと仮定するなら、書いている内容や方向を決定しているのは無意識の要素が多分にある。

書くという行為は、本当のところはコントロールなど出来ないのかもしれない。

裏を返せば、書いたモノから自分の無意識が分かるかもしれないということである。

しかし、この分かるという行為は難しい。

これは自分の意識化におかれて書いたという思い込みがあるからである。

この思い込みがある限り、無意識などわかるものではないのではないだろうか。

でも、その思い込みだけが原因なのか?



・・・・本当は自分の無意識など知りたくないのかもしれない。


「ほんとうに正確な精神は、自分のことしか理解できない、それもある種の状態にある自分しか」

                             (ポール・ヴァレリー)『いわないでおいたこと』