ミクシィの日記と自己イメージ

SNSミクシィをやっている人は、かなり多い。

しかし、僕はやらない。

めんどくさいというのが一番だが、なによりあの足跡システムが不気味だからだ。

でも、ミクシィの話題になると全くついていけないわけでもない。

その話題になる日記を書いているのも、友達だったりするからである。

話題になる日記の共通点は、本人とのギャップであると思う。

いつもはおとなしい感じで、感じのいい子なのに、日記はぶりっ子ちゃん(死語なのかな?)だったり。

いつもは、弱音なんて言わない明るいやつなのに、愚痴だらけであったり。

本当に個人的な日記を見ているようで、複雑な心境になる。

友達に向けて書かれているようなんだけど、本当は違うような気がする。

問題は、「いつもは」なのかもしれない。

その「いつも」とは私たちと接するときの話である。

人は、相手によってもちろん態度が違う。

つまり、私たちと接するときのみの彼らなのだ。

しかし、見せる日記は違う。

公開する日記は誰に向けて書かれているのか?

友達?しかし、「いつも」と違いすぎる。

では、自分か。

そうすると、この文章上の彼らは自分自身のイメージなのではないだろうか?

つまり、自分から見た自分と他人から見る自分の違いである。

その、ギャップがなんとなく座り心地の悪さを感じさせるのかもしれない。

本当にそうなのか?わからない・・・。

不思議なことに「いつも」の彼らのほうが、僕は好きである。

吉本隆明氏が書くことについてこう書いている。

「要するに自己慰安だったんですよ」
                 (「悪人正機吉本隆明
                   

書くことが自己慰安だったのだとしたら、慰安しなければいけない理由が人にはあるということなのである。

そう考えたとき、自分のセルフイメージと現実の自分のギャップも、その理由になるのかもなぁなんて。

ただ、文章上の人格と実際の人格は違うのは、間違いないと思う。

では、二人の自分のどちらかがより本当の自分?と問われたらどうか。

それは、わからない。

PS  この偉そうなブログの筆者も、普段はとても腰が低いです。