写真って
僕にとって、写真というのは不思議だ。
その位置が不思議なのだ。
ビデオほど存在感はなく、まるで空気のように空間をとらえる。
「はい、チーズ」といってもそんなに人を緊張させるものではないだろう。(ビデオレターというものに私は慣れることができない)
写真が緊張をもたらすのは、見られるであろう場面がシリアスであると予想されるときである。
しかし、普通写真を撮られた後は、デジカメのデータとしてパソコンに残るか、プリントとして引出しに残るかである。
写真にはなにか記念碑的な趣がある。
「2010年8月30日我々は飲み会の席を通じ友情に新たな一歩を踏み出した」なんてね・・・・。
当事者が写真について語る時、(アートはもちろん除外である)写真について語っているよりも、その時の思い出を語っている場合が多くはないだろうか?
そう、思い出話のきっかけとして。
そして撮る際も、何かを残したいから写真を用いるのではなく、何かの確認のために使われているのである。
そう、記念碑として。
プリクラはそんな趣が顕著に出ている瞬間記録装置である。
記念碑とは、未来に向けて作られる。
「あっ!写真とろう」と思うときには、時間の意識は未来に向けられているのではないか。
後で、これは笑える!とか。あとであいつにみせようなんてね。
時間の意識が未来に向いているということは、あまり今という時間には意識がないのかななんて思う。
だから、飲み会で写真ばかり撮っているのは、なんか「今年の夏はいっぱい思い出作ろう」的なうなずけないものがある気がするのです。
ここでなんとなくカート・ヴォネガット・Jrの文を。
「ロトの妻は、もちろん、ふりかえるなと命じられていた。だが彼女はふりかえってしまた。私はそのような彼女を愛する。それこそ人間的な行為だと思うからだ。
彼女はそのため塩の柱にかえられた。そういうものだ。」
『スローターハウス5』