21世紀の子供たち(三浦雅士氏の『考える身体』を読んで書くこと)
例えば、「なんで興味を持たないの?」の問いに対し「好き嫌いなんて勝手だろ」以外の答えを探すこと。
これも何がしかの文章にはなる。
私は興味があることと、ないことがかなりはっきりしている。
自分ではそうは思わないけど、人から見ると態度で分かるらしい。
どうなのか?興味とはなんなのか?興味を持つ瞬間とはいつなのか?
ここに興味深い文章がある。
「今は昔のことになってしまうが、一九六〇年代、学生運動が盛んだったころ、新入生を学生運動に巻き込むには理屈はいらない、デモに連れて行けばいいとよく言われていた。」
(『考える身体』三浦雅士)
すごく腑に落ちる文章である。
私は高校入学の時、僕は全く入る気がなかった、ラグビー部の練習に参加させられ、その後三年間ボールと泥にまみれながら過ごした。
練習に出て、ラグビーのここが好きと明確に分かり、入部したのではない。むしろ、なんとなく続けたのだ。
これは、参加すればすべて興味が沸くとかという話ではない。
参加した時の、体に感じる何かが重要なのだ。(私の文章には「なにか」という語が多いがとりあえずご勘弁。)
心が動くのは、頭の上ではなく、現場なのだ。
そして、恐らく参加した時に感じた、なにかを言葉で説明することは難しい。
むろん、言葉で魅力を伝えることはできるし、それに成功している文章は多々ある。
しかし、ここでそれは言葉の意味によってではなく、言葉の響きやその話者のテンションによってではないかと言ってみたい。
話すことも一つの”現場”なのだ、と。
だから、自分の目の前に現場があったら、あんま考えずにちょっとのぞいてみるといい。
ぐっとくれば、ずっといればいいし、駄目だったら、隣の現場に行けばいい。
だって、いたくない場所にいても素敵なことは起きなさそうですもんね。
あらっ?今回って「好き嫌いなんて勝手だろ」を長くしただけじゃない?
それでは。