時計を捨てよ!腹の音を聞け!

今回は随分と遅くなってしまいました。

すいません。

言い訳をしておくと、うまくまとまらなかったのです。

今こうして書いているのは、開き直ったのです。

でも、俺がとっ散らかしても、うまくやってくれるよ・・・・ね。


てな訳で、前回のお手紙→http://d.hatena.ne.jp/todayt86/touch/20101104/1288896518

テーマは時間でしたよね。

あなたはその中で二人の時計所持者を登場させ、女の子に時計を語らせることで、それぞれ

「時」に対する考え方を鮮やかに聞き出しています。

なかなかどうして、ホールデン君はブログというメディアになじんでいるような気がします。

いや、馴染んでいるのはあなたのヴォイスというか、トーンなのかもしれませんけど。

あまりほめると気味悪がられるので、(もうなってるか)その返事書いてみます。

僕が思うのは、何故「時」に対して人は考え方が違うのだろうということです。

それは、きっと一人一人が時計を持っているからではないか。

今は時計であふれています。

携帯電話、パソコン、もちろん腕時計。

んー。こんなに高度な機器を多くの人が持てるようになったのは最近のことなのではないでしょうか?

昔、古典の文で驚いたことがあります。

「じゃあ、丑の刻に井戸の前で」と言った翁がいたのです。(うろ覚えなので正確さは求めないで)

そんときには「こんなんで、会えないじゃん!」と思いましたし、今でもかなり思います。

そして今さら気付くのは、昔の時計って太陽、月のことだったのですね。

一個しかない。それは個々人が持つものというよりは共有するものに近かったような気がするのです。

いや、今だって何時何分という時は共有しています。そうでなければ、時計ではない。

では、一人一人が時計を持つことは何をもたらしたのか?

これはかなり難しい問題ですが、ここで浮かぶのは寺山修司の『田園に死す』という映画です。

その映画の中ではひと組の母子が出てきます。

その子供は、かなり母親に束縛されているのですが、その特徴的なシーンに息子が腕時計をほしがると母親が猛烈に反対するシーンがあるのです。

「この柱時計があるじゃない。」と

母親は、子供に母子の時間から自分の時間に移行してほしくなかったでしょう。


自分の時計を持つとは、ただ腕時計をして便利だなーでは終わらないような気がするのです。

今僕らは大学生なわけですが、高校、中学の時と時間の流れが違うような気がしませんか?

そういえば、大学の教室には時計がありませんね。(おかげでテスト時に腕時計がないと散々な目に会います)

話がずれました。

そして、ここから話はさらにずれます。そしてかなり的外れな見解かもしれません。

「水、空気という本来、分割不可能なものが商品になった時、高度資本主義が始まった」と言ったのは吉本隆明氏だったと記憶しています。

この言葉となんか今の私たちの時間に対する考え方って通ずるものがあると言ってみたいんですよ。

ここで考えたいのが、よく言われている「時間は全員平等に与えられている。」という言葉。

この言葉は、「時」が一種資産のように考えられていることを暗に示しています。

この背景には「時は金なり」という、かなりベンジャミン的な考えが、かなり影響しているのではないかと想像するに難くないですが、今の人は時間=労働ではないですね。

でも、時間を無駄にしたくないという思いは誰でも持っている。

本屋やテレビを見ても「スピード〜」とか「時間」とか「効率」とか「時短」とか、見ない日はないですね。

これらの時短やなるべく早く何かを遂行する情報を買うのは、言ってみれば時間を買っていると言っていいでしょう。

いったい無駄とは何なのか?早く終わらせることは、そんなに重要なのか?

僕にはちょっとわからないですね。貴兄はどう思われますか?

このような風潮はいつごろなのでしょうかね。昭和とかはどうだったのかしら。


あっ。後一個、時を考えるときに面白そうな言葉がありました。

「俺の時間を無駄にするな」

いや、ホントにうまくまとまらなかったですが、今回はこの辺で。それでは。