あのドアの先見えてる?
いつからだろう?
私がテレビを見なくなったのは。
昔は暇さえあれば、それこそテレビのために早く帰ったこともあった。
このブログの最期を見てもらえばわかるが私はテレビが大好きだったのだ。
今はドラマもみないし、お笑いも本当に見なくなった。
それはなにより新聞のテレビ欄を見ても何もウキウキしなくなったことに如実に現れている。
もちろん、忙しいとか他にやることもあるし、インターネットもあるし、携帯だってあるんだから、変わって当然と言えば当然である。
しかし、テレビ自体が魅力を失ったと考えるのも一つ面白いかもしれない。
今回はドラマに絞って考えてみる。
私にとっていいドラマのメルクマールは、自分がそこにいる感覚と最終回が終わっても、もっと続いてくれとするところにある。
つまらないものはなんかパターン化しすぎている気がするのだ。
パターンとは、前例のことであり、作り手のとってある一定の安心感があるのかもしれない。そして、何より分かりやすい。
私はそれは望まない。
求めるのは、心が動くことである。
気持ちが宙吊りにされるようなね。
「黄金の豚」と言うドラマを最初見ていたが、いつしかやめてしまった。
すごく勧善懲悪のパターンのドラマに見えたのである。
もちろん私にはということを強調せねばならない。
似たキャストで「ハケンの品格」と言うドラマがあったが大変面白かった。
しかし、この「ハケンの品格」もあるパターンであることは否めない。
スーパー派遣社員大前春子が、その技術により誰かを救うというパターンがあった。
が、そのパターンにより人物が変わっていった。
変わり方が、AかBかどっちとかではなくごちゃごちゃだった。
変わって、ちゃんちゃん終わりではなかったのである。
しかも、静かに変わっていった。
その変わり目というのは通常もっと熱い演技でお涙頂戴といわんばかりでくる。
重要なことはこの静けさなのかもしれない。
この静けさが、私をドラマの中に引き入れる。
松田優作の「探偵物語」もそんな熱さはない。いや、なくもないが感じさせない。そのドラマっぽさを消すために楽屋落ちのネタはちりばめられたように見える。
いや、消すというより「これはドラマですよ!」と真っ向から言ってしまうのである。
ここまで見ていくとこのごちゃごちゃの変化と静けさというのに惹かれる理由は、私が考える余白を与えてくれるからのような気がする。
余白と言えば、「古畑任三郎」ではないか。
視聴者に謎を与えている。誰が犯人かではなくどのようなトリックをつかったのだ?と。この「?」が重要なのだ。
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そして、最後のCM前には見ている人に「?」のヒントさえ与えてくれる。
でも、一番の余白は犯罪が悪か必要悪というところの判断を古畑がしないところにある。犯罪がここではある種ゲームのように扱われる。
たいてい、推理の後はそのまま奥の扉に刑事につれられていくか、犯罪の告白をしていても古畑はうなずくばかりである。
私は宙吊りのまま、この犯人が連れていかれるドアの向こうにドラマのすごさを感じてしまうのである。
そして、そのドアの先のドラマは私たちが作るのだ。
そのドアが閉じられたドラマを私は支持しない。
今度見るドラマには、ドアがあいているといいけど。
最後に、このようにインターネットで個人がドラマを語ってしまう、一億総批評家時代ともいうべき時代に、マスで何かを伝えるということは本当に大変なことだなあと思う。