アメリカの友人

ある時非常に驚いたことがある。

いつも変なことしか言わない中学の友達が、難しいことをしゃべりだしたのである。

酒を飲んでいたら、急に内面の考察から自分の考え方に至る経緯を話し始めた。

そんな内容でいつものように茶化すことなんて到底できずに僕は「うん・・」といって絶句していた。

その後何ヶ月たってからかカラオケに行くと、その友人が大ファンの歌手がそいつの言っていたことと同じ歌詞を歌っていたのです。

しかし、僕はこの姿勢でいいのだと思うのだ。

というよりもそうするより仕方ない。

僕たちの気持ちを規定するのは、僕たちではなく言葉なのだから。三浦雅士氏の言うところである。

では、これは受け売りといっていいのか?

モンキービジネスVOL10のアメリカ号に内田樹氏と柴田元幸氏の対談が載っている。

その内田氏の発言から引いてみる。

内田  「・・・新聞や雑誌で仕込んだ話を受け売りしてる人っているでしょ。そういう人とは話が噛み合わない。パッケージされたアイデアをポンと持ってくるだけだから。(中略)自分が話を人に聞かせたいだけなんです。」

        『モンキービジネスVOL10』39p


そこで、上の一例と受け売りとなにが違うのか考えてみる。

それは、無意識である。

使おうと思って使うのと気づいたら使っていたという。

自分の意識を経由せずに語った言葉は、経由した末に出てきた言葉は違う。

それを正しいと思っている自分がいないからである。

受け売りの場合はこれは「正しい」と考え使うが、無意識から出てきた言葉にはそれはない。

では、その正しさはどこからくるのだろうか?

もし新聞、書籍の場合は、その権威だろう。

引用の理由は「これは正しいから正しい」という身も蓋もない可能性があるのだ。

無意識の場合はどうか?

まさに言ってしまってからしか、判断できないのだから難しい。

しかし、体を経由してきたことにはいくらか意味がありそうだ。

おそらくその言葉を無意識にでも使わなくてはならない理由があるといっていい。

受け売りにはそれはない。

言わなければいけない理由は、自己意識の強さであるように思われるからだ。

誰も自慢したい自慢話を好きな人はいない。

この考えにはだいぶバイアスがかかっている気がするので、お読みのみなさんはご注意ください。

えっ?お前に何でそんなバイアスのことがわかるのかだって?

もちろん。この考えは受け売りだからですよ。