バルタザールどこへ行く?

自分で考えるって何だ?

友人が興味深い記事を書いていた。

http://the-wind-sing.blogspot.com/2010/12/invisible-assetinvisible.html

例によって、俺もこの話題を書いてみたい。

俺は考えることとは、学ぶものであるといいたい。

不思議なもので、自分で考えることも、また真似することなのである。

もっと言おう。

考えることは、自分がうんぬんよりも自分を消す行為に近いのではないか。

ん?どういうことか?

何かについて考え、それがある程度支持されるには、その対象と自分の関係だけでそのことを考えても、認証は得られないのではないか。(これって、具体例がないとホントに説得力ないんだろうなあ・・)

自分がというよりも、対象に接近すべきなのだ。

よくわかっていただけないかもしれないが、これが俺の語彙力の限界だ。

やっぱ、タイム。もう一度考えさせてください。

もう一度声を大にして言う。

自分で考えることなどできやしない。

何かについて考えるためには、知識であったり、論理であったり、言葉であったり、イディオム、コードを習得しなければならないのだ。

そして、ある程度考え方が規定されてしまうところに、考えることの落とし穴があると言っていい。

しかし、好き嫌いで論ずるのを避けるには、そこに行くしかないのではないか?

そう、何かについて論ずるということにおいて、その対象の歴史を無視はできない。

なにかについて考えるとき、見えるものではなく見えないことにも思いをはせなければいけないからだ。

岸田秀氏の評論を読むと、そう実感できる。

考えるにおいては、受け売り万歳である。恐らく。

よくよく思えば、「自分で考えること」という概念も、自分で考えたものではない。

いや、気づいたら自分が、人と同じことしか言ってないことに気づいたので、自分で考えてみたいと思うようになった人もいるかもしれない。

では、なんで人と同じじゃダメなのか?

えっ、アイデンティティ?独創性?人と同じではおもしろくない?

ふふふ。それも誰かが言っていたんじゃない?

言葉というのは、概念というのは、本当に不思議だ。

誰が初めなんだろう?

それは暗やみに包まれている。

体操の競技では、初めてやった技にその選手の名前が技の名前になるとか聞いたことがある。もちろん高得点で。

しかし、言葉は点数にすることなんてできない。

もちろん、考えることにも。

そして、それを判断するのは、自分ではなく他人である。言い方が悪いな、言いなおす自分を含めた他人である。

話が込み合ってきたな。

何人かは、ここでガシガシとスクロールをしているのだろう。もしかしたら、すでにこの文章もすっ飛ばしていたりして。

最近は自虐的になりすぎていけない。また話がずれた。

でも、他人にわからなければ、考えることを伝えて何の意味がある?

さあ。分からない。

この小論は読者のみなさんに届いているのかしら。

でも、そんなに伝えられるものでもないだろう。

そして、自分で考えるの「自分」とか「私」が出てくると、ろくなことはないというのが俺の実感である。

自分探しとか、自分ってなに症候群とか?

俺はそんなものないし、私とはいろいろなものの集合体であると言いたい。

だから、私とはこれだってものがあると、何かを失う。

これ以外の何かを見ないのだ。内田樹氏の言うところである。

しかし、私はこれだって言う必死なところに、言い切らんとするところに、決意が現れることを忘れてはなるまい。

そして、その決意が必要な時だってある。

今日はずれにずれる。またまた戻す。自分の考えを誰かから学んだと思っていれば、ある意識を持つことができる。

そう、相対化できるのだ。

「自分」が、出てきてしまうと、なんか絶対という言葉が出て気やすい気がするんですよね。

ああ、でもこの考えも相対化したら、絶対視するという選択肢をゴミ箱に入れるわけにはいかない。

まあ、考えるってそうやってゴニョゴニョしつつ、なのかもね。

全然よく分からなかったけど、あとはだれかにお任せしたいと思います・・・