日記、おしゃべり、またはその狭間  Writtenword and Spokenword

さて、最近気付いたがこのブログは実に偉そうだ。

何か文章を書くことと偉そうなことって関係あるのだろうか?

うーん。まあ、今回も例によって偉そうに始まる。

今回は、「むろん」で始まり「絶対に」で終わる。

では、始めよう。

むろん、日記というのは、個人的なものである。

日記をつけるという習慣を、結構やっている人がいて驚いた。

こいつには悩みなんてないよなぁというような、能天気に見える奴でもつけていた。

まあ、悩みと日記の因果関係なんてないんだけど・・・。

そして、他人に見せられる?ときくと、答えはもちろんNOである。

日記というのは誰に書かれているのか?

例えば、未来の自分。未来の誰か。さあ、わからない。

一方おしゃべりでは、相手に聞いてもらうことが前提としてあるため、個人的なこととはいえないだろう。

もちろん、個人的な話というのはあるが、その個人的な話は相手に聞いてもらうという関係性において成り立っている。

独り言に不気味さを感づる瞬間があるのは、その関係性が全く見えないからかもしれない。

別に何か呟くならいい。ぼそぼそって。電車でよく観察していれば、苦もなく、ぼそぼそなんて聞くことができる。

しかし、ずっと一人でしゃべっているのは不気味としか言いようがない。

それは、J・Dサリンジャー『キャチャ―インザライ』のホールデンを見ていればわかる。

どこかに絶対的な怖さを感じてしまうのだ。

そんな怖さは村上春樹の『ノルウェイの森』にも出てくる。

その恐怖は、語り手はその語り手の正しさを証明できないということなのだ。

そう、「私は変人ではない」と言う人は本当に変人か分からんのである。

言葉の正当性なんてものがあるとしたら、どこで見分けるのだろうか?

文脈?事実?なんとなく?

恐らく、なんとなくなのではないか?

なんとなく正しいなんてことがまかり通るなんて言ったら、論文を書いている人に怒られそうだ。

でも、人の大体の第一印象って結構外れない。なんとなくなのに。

そのなんとなくというのは、言葉自体ではなく、言葉の使われ方だったり空気みたいなものだったりする。

そう考えると、小説というのは不思議だ。

紙には、文字しかないのに体に感じるものは違う。

黙読にもトーンはあるのだ。もちろん。

しかし、そのトーンと自己言及のパラドックス混ざると、時に非常に怖くなる。

そう。ポール・オースターの『ガラスの街』のように。

幽霊が「私は幽霊ではありません」っていうほど怖いものはない。

だから、身分証明証はなくしてはいけないのだ。絶対に。