たまには、文章を。
前回、ポール・オースターについて触れた。
今回は、オースターについてである。いわゆる書評になればいいけども。
ポールオースターは物語の作家である。
そして、語り手が一人ではない。
そう、何人も語り手がいるのだ。
初期であれば、それは自己の分裂という形を取って現れ、
『ムーンパレス』以後は、小説の中に何人もの声がひしめき合う。
初期であれば、メランコリーにも似た病的な声のふるえが我々を捕らえ、後期のそれはまるでコンサートのように美しく幾人もの声が別の世界を我々に体感せしめる。
そして、必ずその世界に引き込まれてしまう。
最近の老人三部作もそうだ。
『幻影の書』のアルマと銃のゴタゴタ。『ティンブクトゥ』のミスターボーンズが一人になり少年にやられるところ、中国人の少年の家に招かれるところ。『オラクルナイト』の中国人に変わった小屋につれていかれるところ。
ほんとに引き込まれる。
グイッとね。
IPODで様々の音楽に熱中しているうちに、気づいたら知らない場所へきてしまった、という感がある。
初期の作品は、それとは感じ方が異なる。
「語り手なんているのか?」もっと言えば、「私なんて物語にすぎず、存在なんてしていないのだ」と突きつけられるのだ。
しかし、一貫していることがある。
往々にして彼らは、ブチのめされる。あるいは、己をブチのめす。
一回、全てガタガタになってしまうのだ。
世界と戯れることを、拒否するかのように。あるいは、その密室の世界に魅入られるように。
初期では、そのガタガタから抜け出せたかは分からず終いだ。
そのガタガタのうちに物語は終焉を迎えるからだ。
そして、その終焉にこそ我々は引きつけられる。
その終焉以後は、私たちにバトンは渡されているのだ。
このガタガタにされるのは、レイモンド・チャンドラーと地続きだ。マーロウもまた、警察に、ギャングにブチのめされる。
そんな場面では、彼のウィットに富んだジョークを聞くことはできないが、タフであることを、自分を励まさなければいけないときがあることを、教えてくれる。
また、フィッツジェラルドもそうかもしれない。
そして、もちろんと言うべきか、村上春樹もそうだ。
そのブチのめされることが、『ムーンパレス』以後、変化を見せている。
閉ざされていないのだ。
ガタガタな主人公へ手が差しのべられる。
これは明らかに、世界への関わりが変化している。
もっと、暖かくなっている。暖かいというか、世界と肌をふれあっている。
これから、この老人シリーズが続くのかは分からないが、オースターがどう世界と関わる物語を聞かせてくれるか楽しみである。
そして、自分が一回、原文でオースターを読んでみたくなっていることに気付く。
最後に、原文で聞くことのできる機会を与えてくれた、素敵な書店の店長に感謝を述べながら、この拙い文章を閉じよう。
能登半島に一礼。
日記、おしゃべり、またはその狭間 Writtenword and Spokenword
さて、最近気付いたがこのブログは実に偉そうだ。
何か文章を書くことと偉そうなことって関係あるのだろうか?
うーん。まあ、今回も例によって偉そうに始まる。
今回は、「むろん」で始まり「絶対に」で終わる。
では、始めよう。
むろん、日記というのは、個人的なものである。
日記をつけるという習慣を、結構やっている人がいて驚いた。
こいつには悩みなんてないよなぁというような、能天気に見える奴でもつけていた。
まあ、悩みと日記の因果関係なんてないんだけど・・・。
そして、他人に見せられる?ときくと、答えはもちろんNOである。
日記というのは誰に書かれているのか?
例えば、未来の自分。未来の誰か。さあ、わからない。
一方おしゃべりでは、相手に聞いてもらうことが前提としてあるため、個人的なこととはいえないだろう。
もちろん、個人的な話というのはあるが、その個人的な話は相手に聞いてもらうという関係性において成り立っている。
独り言に不気味さを感づる瞬間があるのは、その関係性が全く見えないからかもしれない。
別に何か呟くならいい。ぼそぼそって。電車でよく観察していれば、苦もなく、ぼそぼそなんて聞くことができる。
しかし、ずっと一人でしゃべっているのは不気味としか言いようがない。
それは、J・Dサリンジャー『キャチャ―インザライ』のホールデンを見ていればわかる。
どこかに絶対的な怖さを感じてしまうのだ。
その恐怖は、語り手はその語り手の正しさを証明できないということなのだ。
そう、「私は変人ではない」と言う人は本当に変人か分からんのである。
言葉の正当性なんてものがあるとしたら、どこで見分けるのだろうか?
文脈?事実?なんとなく?
恐らく、なんとなくなのではないか?
なんとなく正しいなんてことがまかり通るなんて言ったら、論文を書いている人に怒られそうだ。
でも、人の大体の第一印象って結構外れない。なんとなくなのに。
そのなんとなくというのは、言葉自体ではなく、言葉の使われ方だったり空気みたいなものだったりする。
そう考えると、小説というのは不思議だ。
紙には、文字しかないのに体に感じるものは違う。
黙読にもトーンはあるのだ。もちろん。
しかし、そのトーンと自己言及のパラドックス混ざると、時に非常に怖くなる。
そう。ポール・オースターの『ガラスの街』のように。
幽霊が「私は幽霊ではありません」っていうほど怖いものはない。
だから、身分証明証はなくしてはいけないのだ。絶対に。
バルタザールどこへ行く?
自分で考えるって何だ?
友人が興味深い記事を書いていた。
→http://the-wind-sing.blogspot.com/2010/12/invisible-assetinvisible.html
例によって、俺もこの話題を書いてみたい。
俺は考えることとは、学ぶものであるといいたい。
不思議なもので、自分で考えることも、また真似することなのである。
もっと言おう。
考えることは、自分がうんぬんよりも自分を消す行為に近いのではないか。
ん?どういうことか?
何かについて考え、それがある程度支持されるには、その対象と自分の関係だけでそのことを考えても、認証は得られないのではないか。(これって、具体例がないとホントに説得力ないんだろうなあ・・)
自分がというよりも、対象に接近すべきなのだ。
よくわかっていただけないかもしれないが、これが俺の語彙力の限界だ。
やっぱ、タイム。もう一度考えさせてください。
もう一度声を大にして言う。
自分で考えることなどできやしない。
何かについて考えるためには、知識であったり、論理であったり、言葉であったり、イディオム、コードを習得しなければならないのだ。
そして、ある程度考え方が規定されてしまうところに、考えることの落とし穴があると言っていい。
しかし、好き嫌いで論ずるのを避けるには、そこに行くしかないのではないか?
そう、何かについて論ずるということにおいて、その対象の歴史を無視はできない。
なにかについて考えるとき、見えるものではなく見えないことにも思いをはせなければいけないからだ。
岸田秀氏の評論を読むと、そう実感できる。
考えるにおいては、受け売り万歳である。恐らく。
よくよく思えば、「自分で考えること」という概念も、自分で考えたものではない。
いや、気づいたら自分が、人と同じことしか言ってないことに気づいたので、自分で考えてみたいと思うようになった人もいるかもしれない。
では、なんで人と同じじゃダメなのか?
えっ、アイデンティティ?独創性?人と同じではおもしろくない?
ふふふ。それも誰かが言っていたんじゃない?
言葉というのは、概念というのは、本当に不思議だ。
誰が初めなんだろう?
それは暗やみに包まれている。
体操の競技では、初めてやった技にその選手の名前が技の名前になるとか聞いたことがある。もちろん高得点で。
しかし、言葉は点数にすることなんてできない。
もちろん、考えることにも。
そして、それを判断するのは、自分ではなく他人である。言い方が悪いな、言いなおす自分を含めた他人である。
話が込み合ってきたな。
何人かは、ここでガシガシとスクロールをしているのだろう。もしかしたら、すでにこの文章もすっ飛ばしていたりして。
最近は自虐的になりすぎていけない。また話がずれた。
でも、他人にわからなければ、考えることを伝えて何の意味がある?
さあ。分からない。
この小論は読者のみなさんに届いているのかしら。
でも、そんなに伝えられるものでもないだろう。
そして、自分で考えるの「自分」とか「私」が出てくると、ろくなことはないというのが俺の実感である。
自分探しとか、自分ってなに症候群とか?
俺はそんなものないし、私とはいろいろなものの集合体であると言いたい。
だから、私とはこれだってものがあると、何かを失う。
これ以外の何かを見ないのだ。内田樹氏の言うところである。
しかし、私はこれだって言う必死なところに、言い切らんとするところに、決意が現れることを忘れてはなるまい。
そして、その決意が必要な時だってある。
今日はずれにずれる。またまた戻す。自分の考えを誰かから学んだと思っていれば、ある意識を持つことができる。
そう、相対化できるのだ。
「自分」が、出てきてしまうと、なんか絶対という言葉が出て気やすい気がするんですよね。
ああ、でもこの考えも相対化したら、絶対視するという選択肢をゴミ箱に入れるわけにはいかない。
まあ、考えるってそうやってゴニョゴニョしつつ、なのかもね。
全然よく分からなかったけど、あとはだれかにお任せしたいと思います・・・
電子書籍について
電子書籍が出版を変えると言われている。
どうでもイイやって言う人もいるかもしれない。電子だって読まないよというひともいるだろう。
しかし、新しいものである。広まれば、変えないわけがない。パソコンが私たちの生活そのものすら変えてしまったように。
それまでの紙媒体ではできなかった、音楽をつけたり、デザインも今まではできなかったことができるようになる。
そして、著者と読者がダイレクトにつながることができる。
このダイレクトにつながる面白さは、TWITTERの高橋源一郎の「午前0時の小説ラジオ」が人気を博していることからも楽しみである。
そして、世界に発信できる。今までは海外の作品を手にするのは書店の場合、いささか大変なことであった。
AMAZONは、それをかなり変えてくれたが、さらに手に入れやすくなる。
それに、海外をマーケットとして考えることができる。
なにより一番大きいのは、場所をとらなくなることだ。今までの本棚のスペースはがら空きになる。
また、本を買うときにネックになる、重い、かさばるという問題は一挙に改善される。これは大きい。
なんとなく欲しいから買うことができるのだ。そう積読の無限化である。どこまで積むことができるのか。
これはありがたい。理論上は、図書館を持ち運ぶことだって夢ではないらしい。
しかし、この電子書籍は違う意味で出版界を変えようとしているのではないかと思っている。
それは、本のコンテンツ化である。
ついに本が、エンターテインメントの土俵にひきずり出されたのである。
今までだって、本を読むか、テレビを見るか、インターネットをするのかの選択権は消費者が持っていた。
しかし、本を読むというのはある姿勢を要する。
だって、「ゲームでもすっか―。」と「本でも読もう」は同じものではないでしょ。
え?同じ?まあ、いいや。
友達から「最近本読んでんだー!」と聞いた時には、他にはない「おお。」という響きがあった。
「本」という響きには、なんか「教養」とか「学識」に近いムードを持っているのだ。
これは完全に失われてしまう。
そして、IPHONEで読む場合、アプリのゲーム、メールと同等の画面で勝負しなければいけない。
並列に並ばざるを得ない。
「なんだ、本ってすごそうだけど、やっぱつまんないじゃん。」と正面から言われる可能性があるのだ。
もはや、本のライバルは本ではない。他のコンテンツになってしまうのだ。
その時、本がどのような変化をするのか私に想像できるのかしら。
まず、わかりやすさ、楽しいが最優先になる。どんどん分かりやすくなる。
なにより、潜在的読者に手にとってもらうことが優先されるから。
そして、よくわからないものはなくなってくる。そこに面白さがあったとしても。
別に、作る側だって読者をなめているわけではないだろう。
しかし、窓口を狭めるわけにはいかない。
だって、「これがわかるためには、あれを読んでこれをよんでないとなかなかおもしろさはわからないよ」とか「ラストがよくわからない」ゲームはする気にはならないだろう。
そして中には、そのわかりやすさという病を乗り越えた名作も、出てくるにちがいない。
まあ、この仮説は電子書籍のシェアが大部分を占めた場合の話であるが。しかも、ちょっと極端かも。
そして広まるためには、本の絶対的な量が電子化されなければいけないというインフラ面での課題も如実に現れるだろう。
だけれども、IPODが発売されたのは私が高校1、2年立ったと記憶しているが、便利だなと思ってはいたが、ここまで広まるとは考えていなかった。もちろん、並列に並べるわけにはいかない。
しかし、今広がるスピードは半端なものではない。
そして、私は非常に期待している。
本というジャンルが脅かされる時、なにが起こり、なにが変わらないかが。
変わらなければ見えないこともあるのだろうか?
その答えが、どう出るかはわからないし、わかっていては困る。
恐らく今までの小論は全くの見当違いなのだ。分かっている。
未来予測なんて当てることができるのは、パウル君くらいだ。
なまじ、当てないほうがいい。
蛸でさえ、一部から反感を買っているのだ。もし、パウル君が人間だったら?考えたくもない。
しかし予報は蛸に任すことができても、変化を担うのは私達だ。
ふと、気づいたとき、私たちは何を得て、何を失うのか?
そんなことはいってられない。もう変化は始まっているのだから。
アメリカの友人
ある時非常に驚いたことがある。
いつも変なことしか言わない中学の友達が、難しいことをしゃべりだしたのである。
酒を飲んでいたら、急に内面の考察から自分の考え方に至る経緯を話し始めた。
そんな内容でいつものように茶化すことなんて到底できずに僕は「うん・・」といって絶句していた。
その後何ヶ月たってからかカラオケに行くと、その友人が大ファンの歌手がそいつの言っていたことと同じ歌詞を歌っていたのです。
しかし、僕はこの姿勢でいいのだと思うのだ。
というよりもそうするより仕方ない。
僕たちの気持ちを規定するのは、僕たちではなく言葉なのだから。三浦雅士氏の言うところである。
では、これは受け売りといっていいのか?
モンキービジネスVOL10のアメリカ号に内田樹氏と柴田元幸氏の対談が載っている。
その内田氏の発言から引いてみる。
内田 「・・・新聞や雑誌で仕込んだ話を受け売りしてる人っているでしょ。そういう人とは話が噛み合わない。パッケージされたアイデアをポンと持ってくるだけだから。(中略)自分が話を人に聞かせたいだけなんです。」
『モンキービジネスVOL10』39p
そこで、上の一例と受け売りとなにが違うのか考えてみる。
それは、無意識である。
使おうと思って使うのと気づいたら使っていたという。
自分の意識を経由せずに語った言葉は、経由した末に出てきた言葉は違う。
それを正しいと思っている自分がいないからである。
受け売りの場合はこれは「正しい」と考え使うが、無意識から出てきた言葉にはそれはない。
では、その正しさはどこからくるのだろうか?
もし新聞、書籍の場合は、その権威だろう。
引用の理由は「これは正しいから正しい」という身も蓋もない可能性があるのだ。
無意識の場合はどうか?
まさに言ってしまってからしか、判断できないのだから難しい。
しかし、体を経由してきたことにはいくらか意味がありそうだ。
おそらくその言葉を無意識にでも使わなくてはならない理由があるといっていい。
受け売りにはそれはない。
言わなければいけない理由は、自己意識の強さであるように思われるからだ。
誰も自慢したい自慢話を好きな人はいない。
この考えにはだいぶバイアスがかかっている気がするので、お読みのみなさんはご注意ください。
えっ?お前に何でそんなバイアスのことがわかるのかだって?
もちろん。この考えは受け売りだからですよ。
あのドアの先見えてる?
いつからだろう?
私がテレビを見なくなったのは。
昔は暇さえあれば、それこそテレビのために早く帰ったこともあった。
このブログの最期を見てもらえばわかるが私はテレビが大好きだったのだ。
今はドラマもみないし、お笑いも本当に見なくなった。
それはなにより新聞のテレビ欄を見ても何もウキウキしなくなったことに如実に現れている。
もちろん、忙しいとか他にやることもあるし、インターネットもあるし、携帯だってあるんだから、変わって当然と言えば当然である。
しかし、テレビ自体が魅力を失ったと考えるのも一つ面白いかもしれない。
今回はドラマに絞って考えてみる。
私にとっていいドラマのメルクマールは、自分がそこにいる感覚と最終回が終わっても、もっと続いてくれとするところにある。
つまらないものはなんかパターン化しすぎている気がするのだ。
パターンとは、前例のことであり、作り手のとってある一定の安心感があるのかもしれない。そして、何より分かりやすい。
私はそれは望まない。
求めるのは、心が動くことである。
気持ちが宙吊りにされるようなね。
「黄金の豚」と言うドラマを最初見ていたが、いつしかやめてしまった。
すごく勧善懲悪のパターンのドラマに見えたのである。
もちろん私にはということを強調せねばならない。
似たキャストで「ハケンの品格」と言うドラマがあったが大変面白かった。
しかし、この「ハケンの品格」もあるパターンであることは否めない。
スーパー派遣社員大前春子が、その技術により誰かを救うというパターンがあった。
が、そのパターンにより人物が変わっていった。
変わり方が、AかBかどっちとかではなくごちゃごちゃだった。
変わって、ちゃんちゃん終わりではなかったのである。
しかも、静かに変わっていった。
その変わり目というのは通常もっと熱い演技でお涙頂戴といわんばかりでくる。
重要なことはこの静けさなのかもしれない。
この静けさが、私をドラマの中に引き入れる。
松田優作の「探偵物語」もそんな熱さはない。いや、なくもないが感じさせない。そのドラマっぽさを消すために楽屋落ちのネタはちりばめられたように見える。
いや、消すというより「これはドラマですよ!」と真っ向から言ってしまうのである。
ここまで見ていくとこのごちゃごちゃの変化と静けさというのに惹かれる理由は、私が考える余白を与えてくれるからのような気がする。
余白と言えば、「古畑任三郎」ではないか。
視聴者に謎を与えている。誰が犯人かではなくどのようなトリックをつかったのだ?と。この「?」が重要なのだ。
・
そして、最後のCM前には見ている人に「?」のヒントさえ与えてくれる。
でも、一番の余白は犯罪が悪か必要悪というところの判断を古畑がしないところにある。犯罪がここではある種ゲームのように扱われる。
たいてい、推理の後はそのまま奥の扉に刑事につれられていくか、犯罪の告白をしていても古畑はうなずくばかりである。
私は宙吊りのまま、この犯人が連れていかれるドアの向こうにドラマのすごさを感じてしまうのである。
そして、そのドアの先のドラマは私たちが作るのだ。
そのドアが閉じられたドラマを私は支持しない。
今度見るドラマには、ドアがあいているといいけど。
最後に、このようにインターネットで個人がドラマを語ってしまう、一億総批評家時代ともいうべき時代に、マスで何かを伝えるということは本当に大変なことだなあと思う。
マーロウから遠く離れて。
驚いた。先日、mixiニュースで時間銀行というのが紹介されたらしい。時間銀行とは、ある考え方のようなものだ。
時間銀行とはこうだ。毎日いくらかのお金が入ってくるが、その口座は毎日変わるんで、日付が変われば未使用のお金は使えなくなるという状況があったとする。
そこで、そのお金使わないのはもったいないよね?と問いかける。
後はお分かりだろう。
時間も同じなんだよ、とこうくるわけである。
ここまで紹介して言いづらいが、僕はオリジナルを見ていない。
違ったらすいません。
時間銀行とは、とりあえずこういう趣旨らしい。(それを教えてくれた友達はなぜか誇らしげにそれを語ってきた)
しかし、僕にはこれを採用しようとは露ほども思わなかった。(もちろん友達の誇らしげな語り口への嫌悪もある)
これには、一回半ひねりがないからだ。
この一回半ひねりと言う言葉は平川克美氏から拝借した。
平川氏の使い方とは異なるかもしれないが、なんかぴったりな気がするので使わせていただきたい。
前にベンジャミンの「時は金なり」ということをこっそり書いたが、ベンジャミンの言わんとしていたことには労働が挟まっていたのだと思うのだ。
つまり、「時は金なり」とは、「時間があったら働いて金稼ごう」ということであると。
「時間は金だ」ではなくてね。
イコールではなく、何かを経由して求めるものが手には入る構図である。
僕が興味を覚えるのは、この経由にこそである。
この経由は、レイモンドチャンドラーだからだ。
ええ。わかっています。今あなたが画面の前で怪訝な顔をしているのは。ええ。
レイモンドチャンドラーの代表作「ロンググットバイ」はまさにこの経由の物語である。
主人公マーロウにはある友人がいるが、その友人は死んでしまう。その友人の死が気にかかりながら、別の事件を追いその真相を掴んだとき、そこにその生きていた友人を発見する。しかし、テリーはテリーではなくなっている。
村上春樹氏はこれをfind and seekと呼んでいる。
求めたものは、手に入れたときにはすでに別のものになっている。と
ここで重要なものは別と言っても、何になるかはわからないということである。
わからないと言うのは、実に曖昧で掴みづらい。
しかし、このわからなさこそになにかがあるのである。
それを掴む経由にこそ、面白さがあるのだと。
だから、何かモノを勧められるときに「こんなメリットがありますよー。」といってもなんか食指が動かない。
それは、その人の経由の結果掴んだメリットであるからだ。
そうではなくて、経由をこそ語ってほしい。
一回半ひねりのひねっている瞬間をこそ語ってほしいのです。
そのひねり方の運動こそおもしろいんだから。
ドラクエだって、ラスボスの存在は最初からわからないでしょ?(ラスボスがわかるシリーズがあったらごめんなさい)
最初からラスボスの存在がちらつかされたら、面白いのかどうかはちょっとわからない。
その現在進行形で動いている物語に何かは宿る。なんてね。
え?なんでお前にそんなことが分かるのか?だって。それは、「ロンググットバイ」を読めばわかるでしょ。
なんか遠くまで来ましたが、この辺で。